研究 - 日本近代写真のプリズム

Café SHS

「近代日本写真:マニフェスト」

2013年6月30日、Jugend Space、上海、中国


       

日本の写真家たちが、写真が芸術であるかどうか自らに問うていた1930年代初頭、若き芸術史家、伊奈信男は、西洋と日本における写真の歴史と当時の発展について15ページほどの論文を執筆した。今日この論文は、近代日本写真のマニフェストと考えられている。確かに、ここで新興写真運動が定義され、擁護されている。しかし、この論文が発表された雑誌『光画』(1932-33)第一号には、「美しい写真」とは何かを問題にした、民藝運動の創設者、柳宗悦の論文も掲載されている。『光画』第一号全体こそが、近代日本写真のマニフェストとなっているのではないだろうか?

       

Conversations de la Fondation Cartier-Bresson

「日本写真に固有の特徴は存在するのか?」

2012年06月20日、アンリ・カルティエ=ブレッソン財団、パリ、フランス


2012年5月9日から7月29日までアンリ・カルティエ=ブレッソン財団で行われた高梨豊の展覧会に際して、クエンティン・バジャック(ポンピドゥー・センター学芸員)、アントワンヌ・ド・ボプレ(書店経営)、チエリ・ジラル(写真家)とセシル・ラリ(日本写真史研究)が日本写真固有の特徴について議論した。
しばしば戦後日本写真の特徴の一つとして言及させる写真集の装丁が歴史的に検討され、1968年に高梨豊らが創刊した雑誌『プロヴォーク』は、戦前の二つの雑誌、『新興寫眞研究』と『光画』 と比較された。
芸術における影響関係の問題も取り上げられた。例として、浮世絵の手法でチエリ・ジラルが日本で撮った写真が紹介された。

       

Festival histoire de l'art, Fontainebleau, 2012

「日本近代写真:ドイツから日本へ、日本からドイツへ」

2012年06月3日、美術史のフェステイバル、フォンテーヌブロー、フランス


20世紀前半、ドイツと日本の間で、たくさんの行き来があった。この行き来が、30年代の日本写真において存在した文化的芸術的交流の出発点となった。今回、3つの例を挙げようと思う。第一の例は、1929年にシュトゥッツガルトで行われた「フィフォ」の展覧会である。この展覧会は少し変更が加えられて、1931年4月と7月に東京と大阪で開催された。第二の例は、バウハウスで1930-32年に勉強した山脇巌と道子である。二人は建築と織物を学んでいたが、デッサウでフォトモンタージュの実験を始めた。第三の例は、ドイツを三年間離れた後、1936年のベルリンオリンピックに際して、ドイツに戻ってきたフォトジャーナリストの名取洋之助と夫人のエルナ・メクレンブルグである。


参考文献


       

Presentation faite a l'INHA

「30年代の日本写真におけるネットワーク」

2011年6月9日、美術史国立学院 (INHA)


グループが個人に先立つ日本のような国では、「ネットワーク」の観念はきわめて重要である。芸術家、パトロン、ギャラリーの間で築かれたネットワークは、継続的なものにせよ一時的なものにせよ共同体を生み出して、日本のアートに活気を与えた。雑誌『光画』(1932-33)が1932年5月に創刊された時の状況は、とりわけこの現象をうまく説明してくれる。今発表では、写真家としてパトロンとして中心的な役割を果たした野島康三、職場の同僚だった写真家木村伊兵衛とグラフィックデザイナー疋田三朗の関係、また収集家であり理論家であった柳創悦が開催した民芸の展覧会で偶然出会った、将来評論家となる伊奈信男、哲学者谷川徹三、編集者秋葉啓について検討する。


参考文献